あなたの。
【 あなたの。】
2人称自我探求らぼ

toknowbody
もう一人の自分~自分の身体~を知る





2025.11.12



*引き続き、今の自分の身体を知るフェーズが続いている。相変わらず、顔も体つきも性格も(特に口調)なんなら声まで、自分のものと思えない状態に入っている。ひたすら過去生を思い出し、だいたいにおいて断片的に思い出していたものの詳細が出てきていて、そのたびに、「あのときの自分は思っていたよりも頑張っていたし、当時間違いだとか妥当性がないと思われていた周囲の叱責が、時代的に必然だったのだとしても、あのように何度も自分の人格や人権、生存を否定されるような暴力的な処遇である必要はなかった」という認識が積み重なっている。
*そんな折だ。15歳のときに受けた手術のこと、そしてその影響(及び影響の無視)を思い出すことになる。過去生よりも現世の経験であるこっちが後ってどゆこととも思うが、事実としてその順番だったのでしょうがない。そもそも14歳のときに生理時の強烈な腹痛によって救急車で運ばれたのが発端で、当時の検査で白血球がかなりの異常値だったため、その激痛は確かに起こっているらしいという結論になった。が、腹痛が治まると原因が分からず、盲腸を併発しているのかもというのが最終的な判断だったと思う。けれど、生理時の腹痛はその後も続き、高校受験を経て(当時の自宅から歩いていける公立高校の試験は、退院直後だったが、痛みを抑えながら会場に到達して受験でき、無事に合格した)、様子見の手術をすることになった。
*手術時間は全身麻酔で4時間。腸が動きすぎなので両端を縫って括り付けておきました、ついでに盲腸はとりました、最新の縫合技術を行ないました、とのことだった。15歳ということで婦人系の手術だったが、入院は小児病棟だった。手術後、とにかく切り口が痛い。ホッチキスのようなもので止めたとのことで、肉の内部側が果たして止められているのか疑問なほど痛かった。切り口はタオルが触れるだけでも痛みが続き、その痛みを少しでも減らし、その箇所をかばうために、右のお腹に力をかけないように、しかもそれで普通に歩いているように見えるように努力した。エレベーターが上がり下がりするときにかかる重力すら、しばらくは痛かった。歩いていて傷口に力がかかって痛いので、結果的に右足のかかとに体重が乗らないように、つま先から中側くらいのみを使った歩いた。お腹は、下部は腿の途中から力をかけ、上部は胃の上あたりで踏ん張った。上部のそこら辺りから左半身を通って腿の上部辺り、そして足の裏のつま先から中盤辺りを使って立っていたし、左足に常に力がかかっていた(左足利きでよかった)。お腹は右を後ろに引くと傷口に力がかかるので、なるべく右を前の方に出して座ったりしていた。寝るときはまっすぐに上向きに寝ると右のお腹がひきつれて痛いので横向きになって、しかも意外に、右を上にするとお腹の肉の負荷で余計に痛いので、右を上手に下にして、寝返り等はこれも激痛なのでなるべくしないようにした。肩掛けカバンが自分のデフォルトで、主に左にかけていたけれど、これもカバンが重くなると痛いので、意外に、右にかけた方が左腰辺りが踏ん張ってくれて痛くないので、そうした。ギブアップして、しばらくはリュックにしていたかもしれないが、下手に左側に身体や荷物が傾くと激痛なので、これもまた戻った気がする。麻酔の注射の針が打たれた背骨の隙間がこれまたかなり痛く、右のお尻はおそらくこの麻酔の影響で、長いことしびれて何も感じないままだった。いつの間にかそのしびれが消えていたと気づいたのは数年前だろうか。こんなことなので、私にとっての右腹は、15歳以来の40年間、存在しないことになった。意識が行くのは傷口と生理痛で痛いときだけで、それ以外は、かなりの間、傷口全体が重くてしんどかったので無視して暮らしていた。
*おそらく、入学できた高校が自宅から歩いていける場所になければ、満員電車には間違いなくお腹が押されたら痛くて乗っていられなかったので、高校浪人していただろう。14歳で入院時に、病室にお掃除に来てくれたおじいさんに、「受験ができないかもしれない」って、やっとのことで不安を口にしたとき、「高校に一年くらい遅れたって、なんてことないよ?」って言ってくれたことを、今でも覚えている。あの言葉で、この生理時の腹痛に関しては、焦るのはやめよう、自分を焦らせるのはやめようって思ったのだ。この生理時の腹痛の原因が分かったのは結局、大学時代に救急車で運ばれたときで(当時はあまり知られていなかったという子宮内膜症)、痛みがなくなったのは30歳に処方された強烈な精神病の薬で意図せずに生理が止まったときで(子宮内膜症は、子宮外に出てしまって出血時に激痛のもととなっている細胞が、生理が数カ月止まることで消滅して痛みがなくなるのが最も穏便な治し方とのことで、ぶっちゃけ妊娠で生理が止まって治るのがいちばん無理せず理想的)、つまりは上記の手術は、【私にとっては】ほぼ無意味だったということになる。この理不尽さには、もはや笑うしかない。
*近年、身体の痛みと、いわゆるスピリチュアルな感覚が連動していると知った。これは、例えば迷信や似非療法の対象としてというよりはもっと、人間の意識や感覚が身体に宿っているうえでの資質の分担のようなものだと言っていいかもしれない。数年前、nobodyと一緒に作った身体の状態を確認する方法として、五感やチャクラと呼ばれる体内の7つのエネルギーセンターに今の状態を尋ねて知る、というワークがあって、それぞれの箇所に状態を尋ねるときに、身体を右に傾けたり前に出たり、いろいろな反応を通して現状を知らせてくるのだけれど、表現の典型例の一つが、右が「正しさ」、左が「否定感」というもので、これはその感覚ごとにワンセットで機能している。完全にバランスが取れているときは不動になる。この感覚で言って、右腹が存在しないということは、自分の「正しさ」が表現できないということで、つまりは自己肯定感が右腹の分だけ、存在しないことになる。どうして自分の考えに自分自身ではちゃんと自信があるのに、外に向かってそれを主張できないのだろう、どうして卑屈になってしまうのだろうと思っていたが(親からも指摘されてきた)、表現できない自分がなっちゃいないとか何かで自責の念に駆られているのではなく、右腹分の自己肯定感がない(自信と自己肯定感では、他者や自分の外部が関わるかどうかで差がある。自己肯定感は自己評価と連動していて、評価とはつまり他と比べる力である)、存在できなかったということだったのだ。右腹への意識が丸ごと抜け落ちているので、そりゃそうなるはずなのだ。
*そんなわけで、この右腹の回復に、今は努めている。恐ろしいことに、近所の温泉施設に行くと、ここに取り組むと決まって安心したからなのか、高校生時に抑圧したのだろう痛みがわいてくる。割としんどいレベルなので笑、また隠してしまおうかとも思いそうになるが、ここは踏ん張ってちゃんと残っている分の痛みを感じることで、細胞レベルにその損傷具合いを知らせてきちんと治してもらった方が、結局、最終的にもいいようだ。そのあたりの?細胞が、このことを知ってか、「そこらへんめっちゃ大事そうにしているからそのまんまにしておいたよ?治すー?治していい?」って聞いてきたので、目が丸くなりながら「お願いします」と言った。確かに、大事にはしていた。なるべく痛みを感じないように笑。しかしてその「大事さ加減」というのは、身体にとっては、いわゆる「貴重なものだから動かさないでおく」という意味と同義だと認識されていたらしいと分かる。それはそれで、百歩譲って微笑ましいというか、この痛みがこのように保存・記憶されていなければ、40年も経って改めて治すという段階になって、どのくらいどこをどう治したらいいかって、自分にも細胞にも分からなかったかもしれない。なるべく負荷なく治ってくれるように、細胞のほしがっている材料として、食べ物を(主に欲しがるのは程よいタンパク質)せっせと身体に提供している。
*その状況が始まってから、自分の過去生にも現世に対しても、驚くほど、自分を肯定的に解釈できるようになった。また、過去生の、社会的には迫害された人生であっても、敵にあたっていた立場の人と、秘密裏に(単にお互いが暇だった夜中に笑)、お互いの技術を支える思想の構造や自他における役割を比べたりしながら、非常に充実した話をしていたということ、そのときの記憶と内容も思い出した。その経験がまた、今世の自分に自信をくれ、自己肯定感が循環していく。この不思議さは、想像だにしなかった。
*右腹、理不尽な手術と痛みの末に無視されても頑張ったね、他の部分も右腹をかばうために頑張ったね。身体と精神って本当に連動しているんだなぁとしみじみするここ数日なのだった。








2025.11.2 second



*「我慢」というものについて。「我慢しなさい」が口癖だった祖母からもたらされた世界規約で、そうか、じゃあ、我慢が当たり前の世界なら、祖母の前や家の中、そして私自身が我慢すれば、外の世界では我慢しないですむかも、我慢を前提とした行動をしなくてもすむかも、という結論に達した。4歳の、母親がいなかった一年間での話だ。なので私はいまだに、トイレを無意識的に我慢する癖がある。当時の子ども部屋が、敷地がウナギの寝床だった家のいちばん奥にあって、トイレがいちばん手前にあって、子ども部屋から家の真ん中らへんまでは、間を長い暗い廊下が繋いでいたので、夜中は怖くて通れなかったし、その廊下は母親がピアノの教師として仕事している応接間とガラス戸一枚でしか隔てられていなかったので、昼間の母親の仕事中は、母親からの「邪魔しないで」、祖母からの「ママの邪魔しちゃダメよ」のプレッシャーで通れず、生徒さんと生徒さんの時間の合間に通ること、その場面に出くわすことも、母親の「子どもへの躾ができていない恥」のようなものとして咎められたので、必然的にトイレを長時間、我慢することになった。部屋で一人でトイレを我慢していると、ここで久深ちゃんが我慢すれば他では我慢しなくていいかな、といった、許容手形を得るためのポイントを貯めてるような気持ちになった。もちろん潜在的な話で、言語化したことはない。それくらい、自然にそうなっていた。我慢が本当は身体によくないことくらい、多分、祖母を見ていて直観的に分かっていたから、この場をどうにかするための、我慢に対する私なりの辻褄が必要だった。生理的な方面の我慢は、ゆえに他でも連動したと言っていいし、過去生でそのような地獄のような状況を体験したことを思い出すための記憶の片鱗だったのかもしれない。
*ところで。
*自分なりの「我慢しない」を、少しずつ、自分なりに表現していこう。それがもう一人の私、我慢しつづけた私の身体を解放していくから。
*唐突な話題だが。
*大学生くらいのときにぼんやり思っていたことが、年齢にして倍以上の時間が経って、ようやく言語化できそうなので。
*芸術とは、勝手な個人的な解釈だけれど、時代が起こしている精神病もしくは精神病理をいち早く体験した者が、後続を減らすために、その病の毒性をできるだけ取り除いて共有できるように表現した、もしくはそうした要素が無意識的にオブラートに包まれて表現された、ワクチンのようなものだと思う。だから、結果的に「大丈夫」にならないと、もしくはこれにかかっても「大丈夫」であることが表現できていないと、役に立たない。ただし、各種ワクチンの、種々の結果と同様に、体内に入れてその病に対する抗体を作るために、その病の病原菌ようなものを薄めていれてあるので、その病とそれまでに全く関係のない身体だと、身体が激しく抵抗するか、抗体を作るための免疫(これはここで使用している比喩的な意味でいって)がないためにかえって同じ病気にかかってしまう。芸術において、自然に対する分析の結果(精神病理も人間の管轄内の仕事で、ある種の自然現象である)、非常に虚構性が強かったり、虚構性の強い表現方法だったり、生成の難度の高いメディアの複合体であったり、感情的に激しいものだったり、極端に悲劇だったりするのは、制作している自分すらも再発の可能性があるので、病原菌の効果を、現実に比して「相対的に薄める」ためにであって、単なる刺激のためではない。また、作品を摂取した当人が(あくまで当人が)「大丈夫」に至れない作品では、この病がどのようなものか、この病でどのように死ぬのかが記してあるだけで、処方箋にも治療法にもなっていないことが分かるだろう。それは、私にとっては芸術ではない。芸術、「アルト」とは、世界における、あるいはその時代における精神的な病理を、他者に共有できる、顕現させられる表現によって、間接的に遠隔的に治療する「技術」なのだと思っている。芸術はある時期、複製による報酬化や報酬の増幅を目指したもの、あるいはマスメディアに乗せられる形で、社会的にはすぐ効果が反映するタイプのジャーナリズムに陥ってはいなかったか。作品が、作品よりも、文化でなく芸術の権威を示すための言説、作品を難解で価値あるものに仕立て上げる説明言語になってはいなかったか。ドキュメンタリーを模した虚構(すでにここで語義矛盾を起こしている。ドキュメンタリーを個人のアート作品にしている時点で虚構性は免れない)を作品とすることによって、ホワイトキューブが陥った建造物たちの惨事に対して、政治的に振る舞えているかのように勘違いしてはいなかったか。メセナの動きが担当を申し出た、生きることに対しての「大丈夫の看板」を担保でききれなかった状況に対して、素人による簡単で安全なものだったからという認識で排除したのは、どこの誰だったのか。メセナが倒れたのち、映像を本気でやりたいなら映画に行けばいいし、政治を本気でやりたいなら政治に行け、と思ったのは、主に空っぽに近いホワイトキューブにモニタがぽつんとあって、そこに映像が流れているタイプのインスタレーションと呼ばれていた作品群だ。作品というもの自体をパロディ化しているというには、あまりに芸術家気取りで、安全圏で行なわれているように見えた。あの頃のホワイトキューブで展覧されていたものたちは、作品という形式を換骨奪胎しても足りないくらい、芸術ではなかった。芸術家同士の暗黙と沈黙による嫌味の応酬なら、一般公開しないでほしかった。「ここには来る意味がない」「この作品は見る意味がない」と言っているのかと思った笑。そうであれば、会場となっているギャラリーや美術館に対してだいぶ失礼のように思うのだが、会場側と作家側が理念の一致を見てのことなら、鑑賞者や部外者がどうこう言う話でもないのだろうか。








2025.11.2



さて。
*「自分が自分に見えない問題」に取り組みはじめて、もう一年くらい、特にここ数カ月が顕著な感じで時間が経つが、どこにどう取り組むかという点で、いま、解散した実家の自分の荷物の片づけが目下の目標としてあるのだが、この数カ月で主に仕事として取り組んできたこと、それによって捉え直される今回の人生での、自分でも気づかずに無理やり押し込めてきていたつらさ/痛さ/苦しみの諸々が、身体の痛みとともに表面化してきて、なぜかこれが不思議と片付けのための指標にも連動し、片付ける対象や残すべきものが、急速に変化していっている。
*14歳のときに腹痛から救急車で運ばれ、高校に入学した15歳(誕生日が年末なので)に手術をしたのだが、これが長年にわたってかなりの心身のストレスになった。①全身麻酔の注射を打たれた背骨付近~特に右臀部内側にかけての麻痺が30年強続いた、②腹部の切った箇所は最新の縫合技術ということでホッチキスのようなものでバチンバチン止められたものだったが、傷口の内部が開いたままだったので、そのあたりの腹部に力をかけることはもちろん、指でも布でも触れられないほどの激痛が続き、夜も右を下にしては眠れず、右を上にしてもお腹を伸ばそうとするとつれて痛いので、右ひざを少し曲げて痛みを緩和しながら眠った。この癖は今でもある。③起きているときも力がかかると激痛なので、痛みを少しでも和らげるために周辺の肉に力をかけずにかばって、それでもある程度傾かずに歩けるように筋肉の調整を自動的に行なったらしい。そのことによって、周辺の筋肉が分厚く硬くなっており、ここを楽にして元通りの重さをかけられるようにしていく。
*手術時間は4時間超。この手術による不調については、自立を目指す年齢のせいであったり、二度とこの件で病院に行きたくない(身体に触れられたくない)心情もあって、家族も含めてほとんど他者には話してこなかったし、自分でも痛みもろとも忘れるようにした。あれから40年、やっと力をかけても痛みを感じなくなっていることに気づいたので、この修正を実行できる。
*修正すべき具体点として、①手術後の腹部の痛みを避けるために固定させた身体の偏りを治す。座るとき寝るときなど、今でも右腹部に力をかけないように自然に骨盤が右前になっているなど、身体の癖が定着してしまっている、②①の影響もあって(右臀部~腹部に力がかけられなかったため)縦書きで言葉が書けなくなっている、③痛みの無視により発生していた背中の知覚麻痺が緩むとともに出てきた、右腰上あたりを発生源とする痛みを和らげ解放する、④麻酔注射を打たれた背骨の真ん中らへんの知覚が痛みと麻痺から無視されていたらしく、第3チャクラと第4チャクラの間に分断が見られるのでその部分の接続と、第4チャクラを管轄とする感情及び握力の回復(第4チャクラの身体部位、心臓からつながっている掌が痛んできている)。
*nobodyという存在が地区の物語に出現して程なく、Yahoo!のアカウントで「toknowbody」になっていたのに気づいて感慨深い。あの地区に登場する「nobody」は、誰でもない人、身体のない人ではなく、身体を知るための人、だったというわけだ。こうした当時とは異なる自覚も、現実にnobodyと呼んでいた人物(半分、自分の妄想だと思っていた、過去生からの大切な人)が現実にいたことが、わずかな手がかりを伝って判明したこと、彼が私と共に生きられるように対処してくれたことがおそらく影響している。



© hidden maria 2025