あなたの。
【 あなたの。】
2人称自我探求らぼ
*本日の日読み*





2025.9.30



【元号】令和(れいわ)7年
【月名】長月(ながつき)
【節気】秋分(しゅうぶん、9/23〜10/7)
【候】蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ、9/28〜10/2)
【直】執(とる)
【月齢】7.7(上弦の月)
【サビアンシンボル】♎︎天秤座8度「人の住まなくなった家で燃え立つ暖炉」
カップの10R、ワンドのキングR、ソードの5R、カップのナイトR


(TAROT deck@Sharman-Caseli)

「そのお家はさ、家族仲が断然いいってわけじゃなかったけどさ」と、座敷童の子は言いました。彼に初めて出会ったのは、2019年の秋の福島でのことでした。「確かに揺れたんだけどね?でも、家が火事になったわけじゃなかったし、周囲で争いがあったわけでもなかったし、何かお引越しのいいお申し出があったわけでもなかったのに」と彼は下を向いて、地面の草を何となく蹴りました。あれから6年、再び福島の同じ道を歩いていて、また彼に会ったのです。会ったのです、といっても、気配の話ですが。そして彼が、私が当時思っていたような「神さま」ではなく、座敷童だったことを知りました。意外に多くのお家が、震災による原発事故のあと(近くの地域を歩いていました)、そのまま家だけ残されたらしく、この彼は、それらのお家にある記憶の集合体のようなものらしいのでした。2019年当時、この地域の空気がとても緊迫している、ということだけが分かりました。彼に会ったとき、とても悲しそうで、どうやら地域の古くからいた神さまが死んでしまったらしいのでした。「僕らにとってね、生きている人たちにとってどんなかは分からないんだけど」彼は、斜め上を見ながら話します。「僕らが気配の集合体なのと同じでね?いわゆる土地の神さまも、すごく小さな気の集合体なの。僕はそう思ってる。今回ね、多分、何か強い小さなものがものすごくたくさん通り抜けていって、それよりも小さな生きものたちが信じられないほどたくさん亡くなったんだ」「そうなんだね」と私は言いました。「それであの頃、すごく土地が緊張していたのかな。事故から8年経っていたものね」「あの頃は、その小さな生きものたちが、全力で回復していた時期だと思う。今はだいぶ落ち着いたけど、まだしばらくは育たないと間に合わないんじゃないかな?でもここにちゃんと適応できるような新しいのがたくさん生まれているみたいだよ、前の神さまのときっと違うのもいろいろ」「へぇ」「でもさ、お家にあった気は、もうほとんど消えそうで、だから僕も消えそうなの。お家の幸せな記憶たちも消えちゃう。ねぇどうしたらいい?」「うーん、そうだなぁ」と私はこの展開に驚きながらも、急がないように考えました。そもそも、神さまが、これはいわゆる土地の神さまで、人格が初めから存在している神さまとは違うと思いますが、神さまが小さな気の集合体だということも、まだほんのさわりしか分かっていなかったからです。でも、この人間の意識=人格というやつが、かなりの強力に気を集めないと、これだけの豊かで複雑な意志を持つようなものにはならないだろうということも、想像がつきました。「あのさ、そのあなたのお家の記憶ってさ」「うん」「そのお家の人たちも、きっと持っていると思うのね?お家だけじゃなく」「あ、そっか」「うん」「じゃあ、僕が頑張らなくてもいいのかな?本当にもう消えそうなの。でもお家に蓄えられた記憶たちを消したくなくて」「うん」「そうだよね、お家の人たちがいるときには、僕はほんの、目が少しあるぐらいで、よく分かっていなかったから」「うん」「お家の人たちが覚えててくれれば大丈夫だよね!」「うんうん」「分かった、じゃあ、僕は帰ることにする」「帰れる?」「うん」「人格に近くなると、帰るのつらくない?」「ううん、多分だいじょうぶ。集まってできたから、ほどけばいいから」「そう」「微生物っていうんだよね?」「え?」「そういう小さいやつ」「あー、小さいいきものね」「うん」「もしかすると、土地の外に出てるものだけでなく、いろんなところの微生物がいなくなっちゃったかもね」「そっか、ありとあらゆるところにいるもんね、あの小さいの」「そうそう」「だからきっと、神さまになれるんだよ。ほんとにいっぱいいるし、ずっといっぱいいるし、それが集まったり消えて散るくらいにほどいたりできるから」「なるほど」実はそのことを話しているとき、辺りは土砂降りだったのですが、これは彼が今まで悲しかったのを、一時期はおそらく耐えられないほどだったのを、ずっと解放できていなかったゆえの現象かもしれない、と私は思いました。涙にもいろいろあるけど。雨が必ずしも泣いてる証拠なわけじゃないけど。翌日はとても気持ちよく晴れて、滞在していたホテルの近くを散歩をしていたら、黄色い小さなちょうちょが飛んできました。「小さな子が死んだら、黄色い小さなちょうちょになるんだって!僕もなれたの!他のものにもなれるんだね~」と座敷童の彼の声が聞こえてきて、そのちょうちょが上手にひらひらしているのを見たら、泣いてしまいました。「きっと、これね、他のものになれるのってね、人間に近くなったからだと思う」と彼は言って、「座敷童としての経験値がものをいった」と笑いました。「お家の記憶が宿って意識ができたのはよかったけど、どうしたらいいかも分からなくて、もうだいぶ経つし、僕がいたお家には誰も帰ってこないし、もう燃えていない暖炉だけが元気そうで、どうしていいか分からなくなって」「うん」「だからね、お家の人たちも記憶持ってるからだいじょうぶって言ってくれてありがとう」「どういたしまして。前に来たとき、『絶対また来て』って言われていたのに、あれからなかなか来られなくて、遅くなってごめんね」「ううん、間に合ってくれてよかった。僕が消えちゃう前で」「うん」「じゃあね、少しの間ちょうちょやって帰る」「うん」

【←】
土星♄(7/13〜11/28♈︎→♓︎)
天王星♅(9/6〜2026♊︎)
海王星♆(7/5~12/10♈︎→♓︎)
冥王星♇(5/5~10/14♒︎)
(逆行が次に足されるのは水星☿11/10, 木星♃11/12)
【☉】
地球♈︎/月♈︎/水星♏︎/金星♌︎/火星♏︎/木星♋︎/土星♓︎/天王星♉︎/海王星♈︎/冥王星♒︎/カイロン♈︎
(土星♈︎への移動は2025.11.5)

*参考【月名】12/【節気】24/【候】72/【直】12/【月齢】30/【サビアンシンボル】360/【←】天体逆行(ジオセントリック)/【☉】ヘリオセントリック=太陽中心の惑星運行(トランジット)

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*SNSで昔の画家の絵画投稿を拝見する機会が、一時期、割と多かったのだが、たまにこの絵の著作権はどうなっているんだろうと思うことがあった。
一方で、その絵からただただ伝わってくる「見てほしい」という何かが、私の視線を欲している感覚があった。それは作品を生み出すときのエネルギーそのもので、絵自体は、作品自体は、どんなに時間が経っても、こうして誰かの眼前に出現してくるというときは、おそらく「見てほしい」のではないかと感じる。
けれど、作者はどうなのか。すでにその作品を見てほしくない作者がいてもおかしくないし、たとえ作者自身は見てほしくても、もしかしたら権利者は必ずしも同調できないときもあるのかもしれないし、逆に作者以上に、あるいは作者とは別の意図で、共有したい/売り出したいときもあるだろう。
そんなとき、作者自身ではない人のその作品に対する欲求や権利ってなんなんだろうと思う。
その昔は、誰かの「見てほしい」という気持ちを叶えるために、まず作品を制作し、流通の経路に乗せる必要があった。つまり、誰かに認められて依頼されるか、自身が誰かに認められて有名になるか、作品が有名になるかしか、そのルートに乗る方法はなかった。工業の発展によって可能になった複製の可能性も、そのルートの技術や品質に任されて、主に物理的に制約が働いていただろう。
作品に、もしくは製作やその作業に対価が発生するか否かも、このルートに乗るあたりで、同時に決定していった。
そこでは、それぞれの時代に影響された各種の犠牲が伴っていたかもしれないが、流通と価値化はほぼ同時だった。しかも、作品が生み出されてから流通もしくは鑑賞者に届くまでに時間差が存在するのは、当たり前だった。
それがだんだん、これはおそらくメディアへのアクセス権の確保が広がる=一般化することによって、作品の流通ルートが自分に近いところを流れる人が多くなり、誰かが作品を生み出したら、すぐに閲覧優先で流通ルートに乗せることが可能になった。
なんなら、作品制作のアイディアの時点から公開することもできるし、当人が望まない形でここらへんが公開されてしまうことすら、情報の侵犯に近い状態で現象してきているかと思う。ここには、流通はあっても、価値化は伴っていない。
もちろん、作品化のプロセスを共有しながら積み上げて価値化に至る場合もあるようだし、相変わらず、評価基準が各種の権利を補償する類の価値化=賞を獲ることによる価値化から、作者と作品が同時に流通/消費されていくルートも、有効に働いているように見受ける。
このように、作者が、作品を生み出すと同時に、なんなら作品を生み出すよりも前に権利者として機能してしまう現代では、いったい作品自体の「見てほしい」は、どのくらい尊重されているのだろうか。
作品自体の「見てほしい」感は、大昔から、ともするとラスコーの洞窟辺りからも、ずっと変わっていないように思う。
個人的な感覚なのだが、プロセスを逐一共有されたときには、最終的にできあがった作品を、鑑賞者として素で楽しむということができにくい。作品が流通する頃には、もう出涸らしになってしまっているかのようだ。
このとき、作品自体が発するはずの「見てほしい」は、実はひどく裏切られているのではないのか。
作品の、そのメディア(媒体及び定着先としての物質的要素)への定着が十分起こらないうちに、鑑賞対象として、その作品の意味や価値が、「見たい」という欲求の視線によって、消費されてしまっている。
これは、単に流通への抵抗(特に作者以外の、間を取り持つ業者等の)を増やしたらいいという話ではなく、作品というのは、作品として、出来上がるまでのプロセスを含め、どんな他者的な視線からも侵されない状態で、ある一定程度の期間、熟する必要があるのではないだろうかと感じる。むしろそこにしか、金銭がメディア(=媒体として作品の状態に見える化された何ものか)にきちんと乗ってくれるような意味での価値は、発生しないのではないだろうか。
(かつてnobodyが「それって、いわゆる早漏っていうか、まだ付き合ってもいないのにあなたを五次元で抱いちゃうみたいなことと同じだね」と横から言ってて、そのときは「あなたの場合は、私に対してイレギュラーな存在として秘匿な接近を強いられたからでしょ!」と言い返しておいたんだが、結局、20数年前から3次元的な再会も果たしていないのに結婚に向けて突き進んでいるところを見ると、私たち二人に限っては、この拙速には何らかの正当性があったらしい。私たち二人に限っては←)
そんなことで、作品にとって大事なのは、作者でも権利者でもないのではないか、と思ったりする。
ただただ「見てほしい」、それだけ。
作者を有名にしたいわけでも、作者や自分を保持する権利者を儲からせたいわけでもない。
そうした感覚を、どれだけ現代の私たちは理解し、大事にできているだろうか。
このスピード狂のような時代に、そして誰もが作品を作る自由を得ているこの時代に。
金属の割合が暮らしに格段に増えてきた時代の金属仕様のスピード感と、人権が保持されて個々人の大きさが揃うことで、自分比で存在が膨らんだ他者からの無遠慮な欲求に押されて、そうした「大事にしたいところ」を、なし崩しに譲ってしまってはいないだろうか。
作品を守れないことと、自分の身体(個人情報を含む)を守れないこととが、私にはなんだか同じような構造になっているような気がしてならない。(初出2025.1.9を一部改訂)



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